変わりゆくものを愛せる強さを

もくじ!

誕生日おめでとう僕!

誕生日を迎えました。22歳です。

お祝いしてくださった方々、本当にありがとうございました。

Twitter、インスタ、line、電話など、様々な場所で温かい言葉をいただけて、とても嬉しく思います。

 

22歳。ゾロ目ですね。まあゾロ目に大した意味などは無いと思いますが、折角(?)なので持論展開をする前に、「2」に纏わる与太話でもしてみましょうか。

 

M少年の謎解き

 

小学校4年生くらいの時の話です。

当時クラスの中に、好きな女の子がいました。彼女は黒髪ショートカットで、前髪ぱっつん。ほっそりとして控えめな性格をしていました。

 

当時の僕は、今ほど色々なことを考えたりできるようなタイプではありませんでした。その特徴として、自分が好きだと思った人には、とにかく押して押して押しまくる戦法(?)を採用していたことが挙げられるでしょう。

 

そこに相手の気持ちなどは存在しません。自分の気持ちをひたすらアピールしていれば、いずれ両想いになるやろ!みたいな感覚だったと思います。

 

事あるごとに彼女に話しかけ(授業中にも関わらず!)、放課後も近所の公園で遊ぶ約束を(半ば強引に!)取り付け、少しでも彼女の中に自分を映し出そうと必死でした。

 

 努力の末、、

 

その甲斐あってか、彼女の好きな人は僕だ、という噂が聞こえてくるようになったのです(当時、僕の通っていた小学校は、一学年に2クラスしか存在しませんでした。

誰かが誰かを好き、とか誰かと誰かがけんかしている、などのちょっと背伸びして言うなら“ゴシップ"は瞬く間に拡散されていきました。みんな口軽すぎだろ!)。

そうなんですね、何故か上手くいっていたんですよ。僕の戦法。理由なんて全くわかりませんけどね。

 

それで、まあ、お調子者の僕は喜んじゃうわけです。自分の好きな女の子が、自分を好きかもしれない!ラブコメのわかりきったエンドロール並みのニヤニヤです。

多少ませたクソガキであれば、付き合うとかキスする、とか想像出来るのでしょう。しかし当時の僕は、超純粋のピュアピュアチェリーボーイ。

 

「お互い好きだとして、それがどうなるんだ…?」

 

謎が謎のままである以上、自分の中に渦巻く気持ちに居心地の悪さを覚え始めます。

葛藤と思慮の末、天才童貞、村井少年はこの謎を解き明かす唯一の方法を見つけ出したのです。それは、自らを両想いの状態に晒すこと。それしかありませんでした。

 

謎解きはホームルームの後で

 

ある秋の日。五限が終わった後。帰りの会

連絡事項の伝達。黒板に描かれる整った白文字。

騒ぐ男子。喚く女子。揺れるカーテン。落ちかけた光。

 

まっすぐに伸びた背と、凛々しい横顔。

少年の心臓は鳴り止みません。

 

深い赤色のランドセルに手をかける彼女に声をかけます。

 

「あのさ」

「なに?」

「おれ、お前の事好きなんだけどさ、お前はどう?」

 

我ながらとんでもないストレートですね。思い出しただけで顔が真っ赤です。

 

「好きだよ」

「えっほんと!!??」

「うん。でも番目かな」

「2番目?」

「うん」

「1番は?」

「〇〇(当時僕に、ありとあらゆる方法で嫌がらせをしてきた男の名前。話術に長けており、他人と大人を取り込むのが得意。自分の手は決して汚さず、人を使って間接的に攻撃をしかけてきた。犯罪の濡れ衣をきせられたこともある(ガチ))。」

「そっか…」

「うん」

「……」

「じゃあね」

 

少年は、ただただ滲んでゆく世界を眺めることしか出来ませんでした。

 

 

いかかだったでしょうか(?)

 

思えばこれが人生で初めての失恋でしたね。なんだよ2番って!!!

「純粋ゆえの残酷さ」は、しばしば免罪符になることがありますが、本当にそれでいいのだろうか、と思わざるを得ません。M少年の心、土砂降りだったんだぞ!

当時の事を思い出しながら書きましたが、もう10年以上前の話なので、どうしても正確でない部分はあると思います。許してください。

 

以上、2に纏わる与太話でした。

 

持論しかないけども

さて、話を戻しましょう。といっても何も話し始めてないですね。

改めまして、22歳になりました。めでたい。めでたい。

色々な方からお祝いをしていただいて、心から嬉しく思います。本当にありがたい。

 

昨晩寝るときに、年齢を重ねることについて少し考えてみました。

これまでもすべて持論でしたが、ここからも全力で持論です。

 

歳を重ねることとは?

 

多分歳を取るってことは、ショック耐性を身につけること、でしょう。

これを一般的には大人になる、などと言うのでしょうが、それは漠然とし過ぎてピンと来ません。

よく考えたら不思議で仕方がないことがたくさんあるんですよね。

どうしてあの失恋から立ち直れたのか。

どうしてあのどん底から這い上がってこれたのか。

どうして彼に対する怒りが今では0に近いのか。

 

そのショックを受けた当時は、まるで世界が終わるかのような気持ちでした。

しかしなんだかんだ言いながらも、歳だけは順調に重ね、気が付けば世界は輝きを取り戻している。不思議でなりません。

これは耐性が付いた、とも言えますが、時間によりその苦しみや悲しみが減耗されていったからとも言えるでしょう。そんなん当たり前やないか!そう思われますよね。

 本当に当たり前?

でも当たり前だと思っていいのは、

これから自分の身に起こる、どんな感情の起伏をも「いずれ嵐は去るのだ…」と仏陀顔負けの精神でやり過ごせる人のみだと僕は思います。

そうでなければ、あなたはその当たり前のことすら理解できていない事になるのですから。

これを当たり前だと理解するのであれば、これからどんなことが起ころうとも、いずれは減耗されて、気持ちが落ち着くことを正しく推測できるわけですからね。それなら感情的になる必要はないわけですし、まさに仙人!って感じです。

まあ、そんな簡単にいきません。それと同時に、耐性が付くもとい、減耗されることは決して当たり前のことなどではないのです。

 

事実に少しだけ感じる哀愁

僕は少しだけ、ほんの少しだけ、時間によって気持ちが薄れていくことに寂しさを感じました。

話のニュアンス的にはTheseusの船みたいな感じでしょうか。

あれだけ喜べたことが、嬉しかったことが、悲しかったことが、今では何事もなかったかのように、常識のように存在してしまっていて、時には笑い話になっていたりもする。少しづつ忘れて、少しずつ形を変えて自分の中に受け入れられていく。

これが人間が人間たる所以だ、と言われればそうかもしれないけど、これから起こることもきっとそうなっていくのだろうか、と考えてしまうと、こちらも少しだけ寂しいのです。

 

でもこれでいいのだとも思います。人は変わるし価値観も変わる。元より変わらないものなんて殆ど存在しないでしょうから。

 

結論っていうほどのものでもないけど

何が言いたいのか、というと

過去に起こったどんな嬉しいことも悲しいことも、苦しいことも辛いことも、

歳を重ねるごとに、もっといえば時間が経つにつれて、段々とその重みが和らいでいってしまうのだと思います。

だからきっと、これから起こる同じようなこと、抱く感情の波たちも、いつかは穏やかな揺れになっていくのでしょう。つまり本来の形とは、これまでと同じように、似ても似つかないものに変わってしまうのでしょう。

だからと言って世界を達観して、冷めた目で見るようなことはしたくないなあ、と、

いつか変わってしまうことが分かっていても、その結末が望ましいとは思えなくても、

今目の前にある何かを心から愛せる、そんな強さを持っていたいなと、そう思いました。

 

 

おしまひ(お祝いしてくれた方々、重ねてお礼申し上げます。本当にありがとう!)